個人的に考えた「若者文化(ユース・カルチャー)」・・・?

 こんばんわ。部員の安東三です。
 今回(6/17)の放送は久しぶりに『文化系トークラジオLife』のドライヴ感が存分に発揮されてて、個人的にこういうの一番好き。
 さて、ポッドキャストの配信が進む前に、一聴した後の「若者文化」を考えてみようと思います。

  ◇  ◇  ◇

 僕は「汚い大人になんかなりたくないやい」という反抗心よりも、むしろ「そんな青臭いこと言わないような大人になりたい」という欲求を強く持っています。番組内でも「基本的に反抗するのが若者文化だとしても、何にアゲインストするかはおのおの異なる」という意見があったと思うんですが、これに則していえば、僕のは「若者っぽい自意識とかにアゲインストする」という姿勢です。

 隣町に行けば、自分の知らない世界が体験できる、なんていう時代があったそうです。自分の身の周りには日常的な風景があって、その外側にはさらに広大な世界が広がっているっていう。外部に未知まる世界ってものがあるからこそ、それと対称に身近な空間として日常がある、という感覚なんだろうなって想像します。
 しかし僕が暮らしているのは、どんな大事件も既視感のある日常の見慣れた風景になってしまうっていう状況です。「どっからどこまでが自分かわからない」なんてベタな言い方も、結構僕には説得力持って響いちゃうんですよね。
 結局、「あれも知ってる、これも知ってる」っていう既視感ばかりの中で生きていると、「他者」にめぐり会う機会はほんとに少ないです*1。日常の見慣れた風景は「他人」でしかありえなくて、未知なる世界という他者も、いまやホントにあるのかないのかすらわからなくなっているような。
 これはもしかしたら、「世界=俺」なんて笑っちゃうような自意識が、マジな顔してどこまでも広がっていって、厄介なことにそれがぶっ壊されにくい状況になってるのかもしれない、なんて思ったりします。んで、僕は自分の中で際限なく広がっていく自意識を、ホントに狭っ苦しく、鬱陶しいものに感じます。
 そうした狭っ苦しい現状への反抗として、僕は深夜のファミレスでドリンクバーだけ注文して、延々と「よく考えたら、新幹線って速くね?」みたいな会話をします。新幹線の速さがヴァーチャルな他人としてでなく、リアルな他者として実感できる回路が、深夜のファミレスという場所には備わっているように思えるんです。

  ◇  ◇  ◇

 以上、スタジオ見学に行った興奮冷めやまぬモゴモゴでした。
 

*1:「他者」は「他人」と違いまして、「愛の反対は憎しみではなく、無関心です」なんてすばらしく鋭い言葉がありますが、他人は無関心の領域、他者は愛や憎しみの領域です