Life堂と『禊』

本日(11/4)、夕方くらいに50部ほど持参しました。追加分として、500部(!!)刷ったので今後は余裕を持って、随時投入する予定です。ご参考までに。
メッセージボードは、すでにリスナーの付箋で埋め尽くされていて、貼る場所がないほどの状態。これは、前回を遥かに凌駕する勢いではないでしょうか!?
公式Life本、Lifeイベントも着々と近づいて来ました。Lifeが始まって一年。こんな風に目に見える(リアルな)形で、Lifeが「街」に足跡を残す光景を、ぼくは密かに待ち望んでいました(笑)。
Life堂最終日の11月20日に、何かやらかします!?


最後に二つほど引用。

人を否定する言葉はすごくたくさんあふれていて、マスコミでは政治家のカネの問題が糾弾される一方で、ネットではそのマスコミが「世論を誘導している」と叩かれているのだけど、その「あいつはダメだ」という全面否定を超えて、「じゃあ君はどうしたらいいと思う?」という問いには答えられる言葉がない。
あるいはその答えもテンプレート通りのものですよね。清廉潔白な政治家を、とか、偏向報道はやめろ、とか。もしくは最近のマスコミに顕著ですが、誰も反論できないような一般的なお題目を並べてみたり。そこには意味がないとは思いませんが、自分はこうだと表現するための言葉が与えられていない感じがするんです。
その否定的な感じを、僕自身はやっぱりどうにかしたいと思ってしまうんです。僕はこれからどうするのかの話をしたいんですよ。人を否定して気持ちよくなって、それで終わってほしくないんですよ。
それで、一つは本を書く。本を書くときは、とにかくグジグジ書く。最後の最後まで、あれもあってこれもあってと書く。だからだいたい「散漫だ」「最後まで読まないと言いたいことがわからない」とか言われてしまうわけですが(笑)。
そしてもう一つは、ラジオで、これからどうしたらいいのかを愚直に話し合う。文字にすると照れくさいことも、声にすると意外とすんなり通じるので、こうしたらいいよ、ということをできる限り言うようにしています。
鈴木謙介


朝日新聞社論座』2007年11月号 鈴木謙介岡田利規対談「『ゼロ』か『イチ』を超えろ!」より

この、「散漫だ」という言われに関係して、永江朗は『新・批評の事情』においてcharlieのことを、次のように記しています。

ただし、鈴木の著作は必ずしもわかりやすいわけではない。『暴走するインターネット』はともかく、『カーニヴァル化する社会』は、全体としてとっちらかったというか、散漫な印象がある。だがそれは鈴木の構成力が欠けているからではなく、茫洋としてとらえどころのないインターネットと、インターネットとの関係におけるリアル社会というものの全体を、点描的にとらえようとしているからだ。つまり散漫さは意図的なものである。


永江朗『新・批評の事情』原書房 68頁

ぼくが思うには、どうやら、Charlieにとっての「散漫さ」とは「意図的」なものではなく、彼にとっては自然(性分?)なもの、あるいは、それしか選択しうることのできない(彼なりの)「切実」なアプローチではないだろうか、ということです。「散漫さ」=「グジグジ」感こそが、Charlieの、Lifeの、良心でありその妖しげな魅力であったりします。「色々話して、最後は時間切れ(佐々木敦)」な対話を、一年間も継続すること、またそれ以上に渡って実践することは、ぼくらの生活(Life)に、何をもたらすのでしょうか?

えてる